福原圧史さん(柿木村有機農業研究会会長)

有機農業について語る福原圧史さん

清流高津川

「日本の棚田100選」に選ばれた大井谷の棚田

ホットスポット名称:
福原圧史さん(柿木村有機農業研究会会長)
住所:
島根県吉賀町柿木村
タイトル:
山村から発信する
レポート内容:

島根県西部、津和野を過ぎ、あと少しで山口県に入る深い山中に柿木村はある。村のまん中を水質日本一と言われる清流高津川がつらぬく。10年ほど前に合併し、今は吉賀町だが、住民は「村」を残したくて地名は吉賀町柿木村。「昔は“村”であることが恥ずかしいと思っている人が多かったけれど、今はばあちゃんたちが胸を張って“うちは有機の里柿木村だ”と言うようになった。こうなるまでに40年かかったよ」と柿木村有機農業研究会会長をつとめる福原圧史さんは笑う。

1961年に農業基本法ができ、それまで自給自足的な農業だったのが、農作物は商品に変わった。小さな山村は、他の地域との競争の渦に放り込まれた。1970年には減反政策が始まり、柿木村は農地を山に戻そうと植林をするが、いつでも水田に戻せる形で減反しなければならないと言われ断念。農薬がどんどん使われるようになると、田んぼから生き物が消え、高津川が変わり始めた。除草剤を使い始めてから、アユやウナギの姿形がおかしくなり、まがった奇形のものが現れ出した。不便だからと川と田んぼを切り離すとドジョウが消え、雇用を作り出すため川の護岸を進めるとスッポンも見なくなった。スッポンは川から畑に上り産卵するが、護岸がスッポンたちにとっては大きな障壁になってしまった。小さな谷まで治山工事してしまい、川はちょっとした雨で泥川になり、とうとうアユも産卵しなくなった。

減反が4割になり、田んぼには雑草が生え放題、耕作放棄地がどんどん増加し始めた時、「もう競争はやめよう!商品ではなく食べ物を作ろう!」と福原さんは決めた。1960年代後半だった。同じ頃都市では公害問題や食の安全性が問われ始めた。企業城下町だった山口県の徳山や岩国の主婦たちが、食べ物の安全性に目を向け、豊かな山と水に恵まれた柿木村に注目をし始めた。村の外の人たちとの交流が生まれ、都市と山村が柿木村の豊かな自然を通してお互いに学び合った。30年後、農薬=毒ということが村の共通認識になった。「山に合わせた世代交代をしなければならない」「本当の公共投資は、山の手入れ。山と川をちゃんとすることが農業の復活につながる」と福原さんは語る。

少し前まで、村はご多分に漏れず人口減に悩む山村だったが、今は30歳前後の若者の移住が増加し空き家がない状況。移住してくる若者は、みんな水源に近いところに住みたがる。それが地元住民には「なぜ、こんな所に?」と不思議だったそうだ。美味しくて安全な水が当たりまえすぎて、それがどれほどありがたい自然の恵みなのか気づかずにいるからだ。「“うちの子どもは東京”と自慢する人たちは、子どもたちがUターンで帰ってくる準備をしない。村の自然や伝統的な文化を未来へつなごうとしない」と福原さんは、意識改革はまだまだだという。「伝統食を取戻し、食の意識改革を山村から発信しなくてはならない。身土不二という考え方を消費者に訴えるのはこれからの山村の役割」と語る福原さんは、柿木村を高津川流域の良いモデルにしていきたいと考えている。「みんな公私混同でいいんだ。人のためではなく、地域のためが自分のためと同義になることが大事」という言葉が胸に残る。

2015年8月28日 坂田